大連霞小&第13回生の軌跡 U
★流れているBGM♪は「大連霞小学校」の校歌です★ |
![]() 因みに、新一年生時の小学国語読本は、通称「サクラ読本」と云われ、冒頭のページが「サイタ サイタ サクラガサイタ 」で始まり、初めてのカラー印刷されたシャレタ読本の紙面であった。 ![]() 「一億一心」の掛け声の下、国民は太平洋戦争へと駆り立てられて行った。同年12月には,太平洋戦争が勃発、「欲しがりません勝つまでは」、「撃ちてし止まむ」の大号令の下、軍国少年に対する教練等が始まり、戦意昂揚が煽られた。 日本軍は、東南アジア各地を占領したが、昭和17年以降は、アメリカの反攻により形勢が逆転、日本の敗色が濃くなった。やがて、沖縄戦、「盟邦」ナチスドイツの降伏、広島、長崎への原爆投下、そして敗戦。 昭和20年8月15日、初めてラジオから流れる天皇の肉声は、雑音と難解な言葉でよく聞き取れなかった。どうやら敗戦だと判った時、ひよっとしたら日本人は皆殺しにされるかも知れないと、子供心に大変なショックを覚えた。往時巷間では、日本人は皆殺しにされるなどと言うデマが流れていたことも事実である。 昭和20年8月には、ソ連が参戦、ソ満国境から侵攻を開始した。8月下旬には、大連にソ連軍戦車部隊の第一陣が怒涛の勢いで進攻して来た。砲身の長いT34型、T80型戦車?初めて見る鉛色の巨大な戦車の威容と轟音、キャタピラが地鳴りをあげて我が家の前、電車軌道のアスファルトを粉砕しながら驀進して来た。 車上には、金髪丸刈りで、赤鬼然とした面構えで毛深く、マンドリン型の自動小銃を構えて、辺りをへいげいしていた。それは子供心に異様な恐怖心を与えたこと、当時少年だった私の脳裏には、強烈に今でもはっきり刻み込まれている。以後、邦人らはソ連兵士のことを「ロスケ」と呼び、内心では蔑視していた。 それからは、毎日のように怖ーい!無頼漢部隊のソ連軍が無統制とも言うべき暴行、略奪を始め、加えて中国人の暴動、略奪が頻発、大連市中は混乱し、無政府状態の中、治安不安定が続いた。 侵入してきた殆どのソ連兵士は時計を持っていなかった。中には、腕時計を見たことがないのか?「ダワーイ(よこせ) チャスイ(時計)」「チャスイ ニエット」と叫んでは腕時計を強引に取り上げ、略奪した腕時計を両腕にいくつもつけて、誇らしげに見せびらかしていたソ連兵の姿が、子供心に妙に滑稽だつた。 後日談によると、ソ連兵による腕時計強奪事件に対して日本人らも時計対策を考えた。当時、安物の時計は沢山あり、日本品やウォルサムなど安価な物があったので、これを2〜3個用意して置き、ソ連兵が脅しに来るとこれを渡して、その間に家の女性達を裏から隣家に逃そうと言う算段をとった また、ソ連兵は初めて腕時計を持つと、力一杯ネジを巻くために、その加減が判らずゼンマイをねじ切って仕舞い、ネジが切れて役に立たなくなった時計は、それを無造作にポイと路上に捨てていたやに仄聞していた。 敗戦を境にして、これまでの支配者が被支配者に急転落下、陸の孤島と化した大連の邦人は祖国日本から完全に遺棄されたのであった。邦人達の必死の生存作戦が始まった。大連には満州各地から着のみ着のままの邦人達が続々避難して来た。我が家にも旅順から、元警察官の留守家族が難を逃れて転がり込んで来た。 特に食料危機は深刻で、高騰する物価、生活苦に邦人達は自力で生活を維持する方策を考えねばならなかった。身辺の衣類等あらゆる物を露天市場に持ち込んでは、(竹の子生活)二束三文で中国人に買い叩かれながら、全て食糧に替える耐乏生活が続いた。 ![]() 食料難は益々深刻になり、食べ物と云えば、赤黒くて不味い高粱(こうりゃん)飯や、塩味だけの高粱粥、トウモロコシの粥等で、おかずなど勿論無く、辛うじて食べられる悲惨な日々であつたが、食べ物があるだけでも幸せであった。 この頃だったろうか?街角に「日本人の子供買います」の張り紙がしてあり、実際に子供の売り買いがなされたという話を聞かされ時は、体が凍てつき本当にショックでした。我が兄妹三人も、あるいは残留孤児となっていたかも知れなかったことを思うと、当時、両親の必死の生き残りのための苦労は、並大抵のことではなかったと想起している。 ![]() 敗戦の翌年、1946年(昭和21年)3月、混乱の最中、曲がりなりにもどうにか、本校最後となる正式な卒業式(長瀬 薫校長)を想い出深い講堂で迎えることができ、無事霞国民学校を卒業した。 そして、大連中学に進学することになるのだが・・・ |
[大連中学校創立65周年記念誌より一部抜粋、引用]
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
大連霞小学校正門 |
校 歴
昭和 7年 4月 | 開校、校舎未完成のため下藤尋常小学校が仮校舎5月に新校舎一期工事竣工。6月より新校舎にて授業開始。12月に校舎全面落成。13クラス642名で発足 |
昭和 8年 | 校旗及び校歌制定。校歌の作詞者・作曲者、園山民平 |
昭和10年 4月 |
養護学校設置(1、2、3年) |
昭和12年 | 学校給食開始。校舎の地階に調理室を設置。 |
昭和14年 | 青年学級の設置(夜間) 大連市内小学校を利用し、レントゲンセンターを設置(技師配置) |
昭和16年 9月 | 体錬科の研究発表(体育・養護)。関東州全域を対象。 |
昭和16年12月 | 太平洋戦争勃発。この頃より総ての教育が皇室、戦争中心、国体明徴の教育となる。 |
昭和18年 | 物資の配給が不自由となり、特に冬に暖房にも意を用いねばならなくなった。児童達は「欲しがりません、勝つまでは」耐乏生活に入る。学校も教材、教具、消耗品、(特に用紙)が不自由になった。 |
昭和20年 8月 | 敗戦。詔勅の振るとともに御真影、教育勅語を焼却。 |
昭和20年 8月下旬 |
ソ連兵大連を占領。 |
昭和20年 9月 | 2学期開始。開始後7ケ月間位、女教員は万一を考え登校せず、学校長は戦犯として馘首され、教員で委員制度を組織、選出した委員長が運営に当たった。 |
昭和20年10月 | この月迄日本の行政監督下。授業は午前中のみになる。公学堂は中国が接収、公学堂の日本人教員は国民学校に転勤。陳教育長は(前教育課勤務)の中国語での民主主義の教育理念の講習があり、続いて大東亜戦争に対しての自己批判の試験を受けさせられる。天皇は絶対なりと書いた先生は不採用として籍が無くなった。 |
昭和20年11月 | 中国の行政管轄になる。給料は3ヵ月分貯金通帳で支給されたが、資金凍結命令で現金にならず。児童より1口100円の月謝を徴収、全学校一括してから教員に配分。 |
昭和21年 3月 | 教員の内独身者、共働きの女教員は勇退。この頃は児童数も激減。 |
昭和21年 4月 |
学校は接収され大正校に移転、そして合併。両校生徒合わせて一学年2クラス程度の児童数。 |
昭和21年11月 | この頃までかろうじて授業が続く。大正校も1階は中国保安隊が接収、学校としては2階以上を使用。 |
昭和21年12月 | 引揚の話が出だし、学校は自然閉鎖。接収時の要員として、小賀みちこ先生1名のみ残留。 |
昭和22年 2月末 | 残留中、接収の事もなく、そのままにして引き揚げる。 |
(中島林次、河野義光、永田武光、小賀みち子の4先生の寄稿から) ★大連霞小学校第17回全国同窓会会報誌より抜粋 |
褒 状 & 通 知 表
一部の写真は、クリックすると大きな画面で見ることができます。