ニコニコ児童劇団

大連霞国民学校

ニコニコ児童劇団顛末記

■ [ニコニコ児童劇団]の活動〜雑記 後藤 久子(霞小教諭〜旅順女師) 
後藤 恵子(下藤) 
          

1、戦後の大連の学校にこんな活動があった。
 

 
昭和20年8月15日以降、引揚開始による学校閉鎖までの間、大連の国民学校は開かれていたが、不安定な学校運営となっていた。校舎接収による学校統合、教職員の整理や異動、住宅調整などによる目まぐるしい転出入生の動きなどで、落着かない雰囲気であった。しかし、二部授業や手作り教科書等を使っての学校運営は、曲折はあるものの絶えることなく続けられていた
 
 こうした状況にあつて「霞国民学校」で結成された児童劇団の活動は、短期間(昭和20年度末〜21年度初頭)のものではあったが、当時の反響も大きく、子供達に忘れ難いものを残した活動であつた。未だに記憶に留めている方々も多い。
以下残されている2枚のプログラムを基にして、活動の概要を記したい

 @ 劇団名    ニコニコ児童劇団
 A 結成校    大連霞国民学校(代表者=校長・長瀬 薫)・・・・プログラムに明記

 
B 活動の目指すもの
   第1回公演(2月公演)プログラム掲載の「ご挨拶」による。

  

 戦雲のかげに、児童の豊かなものが忘れ去られていたあの頃。終戦のラッパの音にのって、総てがその姿を変えて参ったのです。「明るく、清く、すくすく伸びてくれ」これは童心に呼びかけられる言葉である筈です。新しい時代へ駆け出す児童に、今こそ本当の意味での、児童文化の建設が叫ばれなければならないと存じます。

 今度ソ連司令部及び市政府教育局の御厚情の下に、ニコニコ児童劇団の誕生をみることになりました。
 脚本も、演出も、装置も、国民学校の先生方の手で、そして児童総てがこの劇団の子供達なのです。豊かなものの中に教えの手を伸ばして参ります。すっきりとした明るい児童劇団の歩みを手をとってお導き下さいませ。    -ひろし記
-


 執筆者は、リーダーの職員「渡部 博」である。この一文で、活動の意図と方向とを知ることができよう。

 C 劇団のスタッフ   霞校職員と一名の日本橋校職員が記録されている。
     ・渡部 博  ・福島 潔  ・飯塚卓三  ・鈴木 馨  ・細川綾子  ・後藤久子  ・白井利夫
     ・石川充子  ・白石千可良  ・水谷茂行  ・工藤隻人
 
 出演児童は高学年生が中心であつたが、全学年関わっていたので、各学年職員の支えは大きかった。


 D 児童劇団の歌
   子供達の気持ちを明るく元気にするために、
♪劇団歌「いつもニコニコ」が作られ、公演前から広く歌われた。スタツフ「福島 潔」の作詞・作曲であった。(先年、幻の歌として新聞紙上で話題になっていたことを知り、平成16年3月28日付け"産経新聞〜双方向プラザ"に、歌の正確な由来の掲載が実現した。また採譜したものを希望者に配布することも実現した。)

             
♪劇団歌 「いつも ニコニコ」♪
 
 1 空は青いぞ 何処までも
   綺麗に晴れた その中に
   ぽっかり浮いた 雲一つ
   夢のお国の 使ひ船

 3 空は広いぞ 何処までも
   見ろよ明るい 青空だ
   行こうよ行こう 胸張って
   足どり軽く 元気よく
 2 空に浮くのは ちぎれ雲
   大きな声で 呼びかける
   子供のお国 夢の国
   こだまするのは 若い雲

 
   昨日も 今日も 明日からも
   いつも ニコニコ ニコニコ

隣接校や参加校の多くで集会や音楽の時間などに取り上げられたと伝えられている。


E 公演の経過

 ・第1回公演(2月公演)↓会場〜霞国民学校講堂  ・第1回公演(2月公演) ↓会場〜日本橋国民学校

大連霞国民学校講堂大連日本橋国民学校
 

 ・第2回公演(5月公演) 会場〜霞校近くの{九星劇場} 旧・宝館

2、第1回 公演の概要
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・正確には昭和21年3月9日・10日は霞校で、11日は日本橋校での公演。

 ・プログラムの一隅に切り取り部分があり、劇団印が押されているが入場者数確認に用いられ、無料であった。近隣校の子供達は引率されて参加した。下藤校4学年の場合は、いずれかの日の午後引率されて行き、終了後は現地解散。空の重い曇天の日であったが、子供達は明るく嬉々としていたと言う。

 ・出演者とスタッフは、放課後講堂に集まって練習と準備を重ねた。治安が懸念される頃であったので、遅い時間までの練習は不可能であったが、緊張感一杯の張り詰めた日々であった。
 衣装や装置は全て持ち寄り材料での手作りであり、小物類は家でスタッフが夜鍋仕事で完成したりした。
練習中に洩れ聞こえる劇中歌なども校内で気軽に流行して、公演前の盛り上がりは予想以上であった。

上記画像をクリツクすると大きな画面で見ることが出来ます
 ・霞校会場での二日間を終えて、会場は一日限りであったが日本橋校に移つた。舞踊の担当が日本橋校であったための遠出の公演となったようだ。

3、第2回 公演の概要
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 ・昭和21年5月17日〜19日の毎日2回公演。20日は午後のみ。一般と中学生は日曜日に・・・と但し書きがあり、10円の入場料のことがプログラム表面に印刷されている。因みに5月19日が日曜日であった。

 プログラムには「場内整理券」の切り取り部分がある。子供達は無料。入場料は会場使用料として、中国側への支払いに充てられた。・午前の部は10時から、午後は1時開演と時間も明示されている。

 ・公演の前日、劇場での予行が計画されていたが、劇場は既に中国側の支配下にあつて、当日になってその場で予行は不許可となり、学校に戻っての練習となつた。劇場使用で幾分好評であったのは、開閉スムーズな幕のことであった。

 ・学校年度替わりで、出演者は一からの編成となったが、1回公園に続いてスタッフ職員も子供達と共に舞台で演技し、演目を盛り上げるのに一役買っていた。


                                
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4、付  言

 
昭和21年学校年度に入り、学校の管理体制は大きく変化した。細かいことについては既に諸方で書かれていると思われるので省略するが、心許せない問題の多い運営体制となった。教職員の人員整理や異動なとで、学校の空気は揺らぎはじめ、大切に育ててきた諸々が消えて行く方向に向かった。

 雑然とした雰囲気のなかで閉校の時を迎え、子供達はそれぞれ地へと旅立って行った。あの時代の全てを忘れたいと願い忘れ去った者もいる。心打つたものを大切に抱き続けている者もいる。いずれにしても、"いつもニコニコ"を
今も口遊んでいる者がいることを思うとき、当時の小さな教育活動に関わった者としてそれなりに受け止めて、あの熱気溢れる日々のことなどを振り返っている。

 ・ソ連占領下でのこの活動は、内容的に干渉を受けたのではないか?との疑問を呈されることがよくあるが、プログラムの解説等でその疑念は払拭されよう。そして不安な毎日の中で、しっかりと立って活動した子供達の名を、過去のものとして埋没させることなく、今一度慈しんで頂ければ幸いである。

 混乱の巷にあることを忘れ、一時、目を輝かせて舞台で演じ、またそれを楽しく見入った沢山の子供達は、小さな一ページではあつたが、大連の国民学校史の終幕を飾った存在であつたと言って良いのかも知れない。
                        〜以上は後藤久子先生の筆録による〜

★以上 20世紀大連会議の機関紙「The Great Connection 第19号(2009/10/30 発行)」より抜粋、転載    

★大連霞小・第13回生の軌跡 「純ちゃんの少年時代」はこちらからどうぞ!!