大連霞小・第13回生の軌跡

大連中学校全景


大連中学校の歩み

大連中学校校舎全景 大連中学校の校歴(抄)


大連中学校校舎全景


大連中学校校長 池田京治
1934(昭9)


1935(昭10)

1937(昭12)


1938(昭13)


1939(昭14)


1945(昭20)







1946(昭21)








★市立大連中学校創立、大連下藤小学校の仮校舎で発足。一回生入学

4月東洋一を誇る新校舎が落成する。

4月大連中校歌制定、北原白秋作詞、山田耕作曲。5回生入学、全学年が揃う

3月一回生卒業、初めての卒業生が社会に巣立つ

3月7回生(5年)8回生(4年)卒業(中学校は4年制に短縮)。

8月15日、日本敗戦。
8月25日池田校長退任、校旗等焼却。
9月ソ連軍が大連に進駐し大連中学校を略奪、在校生難民状態となる。

3月、ソ連から返還された空洞の大連中校舎で、9回生卒業

4月、大連中最後になる13回生が入学。

8月大連中校舎を中共軍に明け渡し、大連下藤小学校に移転、「大連日僑第二中学校」に校名改名。

12月、流転の後大連芙蓉高女の校舎で、繰上げの大連中学校学年修了証書が交付される。

★母校大連中学校は本日を以って永遠に消滅する。

霞小第13回生・大連中学最後の入学生となる


敗戦後混乱の最中、曲りなりに小学校の課程を卒業した我々霞小13回生は、翌1946年(昭和21年4月)、大連中学校へ進学。当時大連における社会情勢の混乱を考慮してか、入学試験は行われず、全員希望校に無事入学した。さて、大連中学最後の入学となった我々霞小13回生であるが、奇しき縁で大連中でも又もや13回生であった。

 落成時東洋一を誇った大連中校舎であったが、外観上は立派に見えたものの、校舎に一歩入ると机も椅子も無く、辛うじて床面と黒板があるだけの全く荒廃した校舎に愕然とした。大連中の校舎は我々13回生が入学する前年、昭和20年9月にソ連軍によって接収された。その後4ヵ月の駐留を経て、ソ連軍は校舎から撤退した。その直後、付近に住む中国人が校舎に乱入、冬季に備えて燃えるものは全て持ち出し燃料としたのであろうか。残るは天井と床だけで教壇もなかった。


 我々13回生は毎日背嚢に画板を携行しての徒歩登校になったが、机も椅子もない、荒廃した教室の床の上に直に座り、画板を肩にかけての授業となった。窓ガラスは所々破れていて、風雨が吹き込む侘しい授業であったが、反面先生方は逆境にもめげず、熱心に教鞭を執ってくれたように想う。

大連下藤小学校(1992)その後6月頃だったろうか、中共軍によって校舎は再び接収され、大連下藤小学校に仮住まいを余儀なくされた。その頃だったろうか?下藤小の講堂で大連芙蓉高女と合同で文化祭が開かれたり、その後運動会も行われたが、どんな編成でどのような競技に参加したかは定かでない。なかでも、慶応大学の応援歌「陸の王者」の替え歌を応援歌として、皆で大声で歌ったことが今だに記憶に残っており、懐かしい想い出のひとつとなっている。

 芙蓉高女との合同文化祭について、大連中学11回生である先輩の回想記によると、敗戦後の昭和21年4月〜5月頃だつたろうか?下藤小学校の講堂で、大連中学と芙蓉高女との初めての試みである合同文化祭が催された。
 
 大中生からは有志がバンド演奏に出演した。楽器の編成はいとも単純で、ハーモニカ、ギター、マンドリンなどだったらしい。一方、芙蓉高女の方は、ドイツ歌曲の独唱や演劇だったとか?その後、このバンドと演劇グループは、当時、大連埠頭に収容されていた満洲奥地からの引揚者を訪ねて慰問出演している。全員参加ではなかったので、この画期的な行事を覚えていない者も多いように想う。
 
 次いで昭和21年8月19日には、大連中学校の校名が「大連市日僑中等学校第二校」と改名された。

 下藤小学校での授業も永くは続かず又もや、突然追い出しを食い、今度は大連芙蓉高女の校舎に移転、大連中の生徒は午後からの二部授業となった。

大連芙蓉高等女学校1946年(昭和21年)12月に至り、大連芙蓉高女の校舎において、大連中の在校生に対して、「引き揚げ開始のために特に繰り上げ修了を認定する」旨付記された、昭和21年12月20日付の「修了証書」が交付された

ここに、敗戦後1年3ヵ月余で、名実ともに我等が母校大連中学校は消滅したことになる。因みに、当時の同期生入学者数は262名、一学年繰上げ終了時には194名になっていた。

大連埠頭
上記画像をクリックすると校歌BGMが流れます。Hideki'sHPから借用

翌1947年(昭和22年2月)から、大連市における在留邦人に対して、待望の本格的な引き揚げが始まった。

 3月下旬、大連埠頭近くの引揚者仮収容所で待機すること数日間、老朽貨物船を急遽改造したような引き揚げ船(不確かな記憶ながら、大拓丸では?)に、家族5人全員で乗船、未だ見ぬ祖国日本を目指し、一路大連を後にした。
引揚船 大拓丸
★さようなら、大連 !! そして佐世保港に上陸した。
映画俳優・三船敏郎●追悼・さて余談になるが、大連中学校の偉大な先輩に、「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎(みふねとしろう・1920/4/1〜1997/12/24)がいた。ご案内のとおり、「羅生門」「七人の侍」など、数々の黒澤明監督の名作映画に主演した、日本を代表する映画俳優である。

三船敏郎は、中国・山東省青島に生れ、その後大連に移り住み、大連中学校を卒業後、甲種合格で兵役につく。1940年に満洲陸軍航空隊に入隊し、熊本の特攻基地で終戦を迎えた。

以上、大連中学校創立65周年記念誌より一部抜粋・転載

■大連中学校校舎内部写真(戦前)
★大連中学校生徒玄関 ★大連中学校廊下
★大連中学校教室 ★大連中学校体育館

回顧録「純ちゃんの少年時代」はこちらから

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