憲ちゃんの少年時代

憲ちゃんの少年時代

転校同級生 憲ちゃんこと保田憲男君のプロフィール

1933年長崎で生まれた憲ちゃんは、数え年六歳で渡満、奉天を経て大連に移った。二年二学期大連静浦
国民学校に転入。時間割表の「遊戯」を「お遊戯」=踊り=と思い込み、仮病を使って毎回サボり、静浦湾や
老虎灘で「つり」を覚え、秋には学校裏の禿山でハツタケ狩り、よく遊んだなぁ。


1941年12月8日、真珠湾攻撃に歓喜。

四年二学期、大連霞国民学校に転校。「生意気だ」と決闘を申し込まれ震え上がる。映画「海軍」を見て予科
練に憧れた。

五年三学期には大連聖徳国民学校へ転校。大連放送局から理科の「共鳴」をテーマに放送したっけ。

六年一学期、大連伏見国民学校に転校。敗戦間近を知らず、防空壕を掘る。全員上半身裸で分列行進する
女生徒の乳房に目が動く憲ちゃん。1945年8月15日敗戦。「軍国少年」に育てられた憲ちゃんは茫然自失
。煙草の立ち売りを始めたが、かご抜け詐欺に遭う。

混乱の最中、大連一中に進学。英語の時間、日本語を使わない教師に「ユー マストアンサー」と問いかけら
れ面食らう。高粱の粥をすすって命を繋ぎ、やがて引き揚げ船「名優丸」で1947年1月末帰国の途に。 嗚
呼、大連!!
以上・憲ちゃんの寄稿によるコメントから転載



★大連伏見国民学校卒業記念写真(1946年3月撮影)
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上記写真の最後列右から7人目が憲ちゃんです。転校先の大連伏見国民学校の卒業記念写真を贈ってもらいました。
写真原稿がコピー印刷であったため、不鮮明なアップになりました。ご容赦ください。

大連霞国民学校で、4年の2学期から5年の2学期までしか在学しなかった憲ちゃん、転校で一緒に卒業できなかったけど
共に、大連に育ち多感な少年時代を過ごした、やっぱり、懐かしい「霞小の仲間」でーす。

ところで、現在の憲ちゃんは、奈良県橿原市に在住、日本民主主義文学会奈良県支部に属し、江俣 溝のペンネームで、
広く文筆活動に精励されています。今後益々のご活躍を期待しています。           Zyun 記


通 知 表 &c

五学年通知表 画面を拡大して見る画像拡大

通知表

昭和十九年度通知表(表)・大連霞国民学校
校長 長瀬  薫
担任 水野谷茂行
児童 初等科第五学年一組 保田憲男

通知表(裏面)

昭和十九年度通知表(裏)・見開き分・B5版・上質厚紙使用

同級生の
憲ちゃん成績優秀でした
第五学年級長辞令 辞令(B列5版・半罫紙・ガリ版刷り使用)

第五学年一組 保田憲男
第一学期間 級長ヲ命ス

昭和十九年四月七日
大連霞国民学校

当時の褒状、賞状、辞令類は何故か?
ひらがなではなくカタカナを使用している

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