学友の回想記

大連中学校第13回生

学友の回想記

@ 2学期だけの大中生活 郷  鉄夫(下藤小卒)
A 机の無かった教室 岩井  明(大正小卒)
B 終戦前後のことなど(大連) 江口 雅昭(下藤小卒)
C 終戦当時の大連中学について 山元  清(8回生・昭21年卒)
 
■ 2学期だけの大中生活                            郷 鉄夫 (下藤小卒)

今にして思うと、黒板があったのが不思議である。どうして黒板は無くなっていなかったのであろうか?ソ連軍による接収が解除になり、入学できただけでも幸いだった、と言わなければならないのであろうが、とにかく、がらんどうの教室だった。

意思さえあれば誰もが中学に進めた良い町であり、また、時代でもあったが、それでも「中学」とは、少年にとってそれまでと違った世界を意味するものであった。

しかも、大中の校舎は、当時の日本の水準からは別天地の趣があったであろう大連の街並みしか知らない少年達の目にも、抜きん出て辺りを払う映る存在であった。

その憧れの大中生活が画板と座布団を抱えての登校というかたちで始まったのである。

 中学の授業は新鮮だった。国島先生の地理では北海道からスタートした。屈斜路湖や阿寒湖や摩周湖で火口原湖とカルデラ湖が、サロマ湖で潟湖が、札幌で扇状地が、函館で陸繋島がそれぞれ説明された。葡萄は何県で一番たくさんとれるなどということを、君たちが一々覚える必要はない、と言われたときは、中学の先生はさすがに違うものだと思った

 双紙先生が生命とは何か、生きているとはどういうことかとの質問を出された。いろいろな答えが出た。私が「人間は年をとったら死にます」と答えたら、皆がどっと笑った。先生は「生あるが故に死ありか」と肯かれた。さあ、次は先生の番だ。いよいよ「生命」の何たるかを教えてもらえるのだ、やっぱり中学だ。〜とワクワクして待った。ところがなんと、「実はまだ判っていない」というお話、肩透かしを食ったような気分だった。

 黒板いっぱいにせっせと幾何の証明を書かれ、それをノートに完全に書き写すようにと指示されたのは鈴木先生である。数学を丸暗記しなければならないなど、未熟な少年とはいえ、抵抗感があつた。生涯〜というにはまだ早いが〜解析と幾何とで好き嫌いの差が生じたのはこのせいかも知れない。

 記憶が定かでないのだが、「学園の民主化」というような題ではなかったかと思う。作文の試験に対して川村先生から予告があった課題である。今考えても随分と難しい出題をされたものだが、何せ、それまで普通の日本人は皇国史観で生きていたのだから、私の父親にしたところで「民主主義など知るはずもない。

 百科辞典で一生懸命調べて原稿を作ってみたのだけれど、試験当日、全部書き切ることができなかった。先生が講評で「いくら良く書けていても完結していないものには点は付けられない」と言われた。良く書けていたかどうかは別問題として自分のことだと思った。

 百科辞典といえば、数学研究会で可愛がって頂いた最上級生の甲斐昭良さん、仲村堯至さんといった方々が、この辞典を目的に揃って家にお出でになったことがある。そのころ、コックリさんの話題が人気を集めていた。中学生には格好の関心事だつたであろう。後に物理学者なられた加藤祐輔さんを含め、皆さん、コックリさんは「自働現象」だという事典の説明を巡って熱心に議論されたものである。

 校舎が再度接収の憂き目に会い、大中発祥の地であるという我が母校、下藤小に教室が移された。その校庭で二度目の運動会をやり終えた後、今度は下藤小の講堂を借りて芙蓉高女と合同の文化祭をやろうという計画が持ち上がった。上級生が我々の同意を求めるために何度もやってきた。

 一年生はその度に、冷やかし半分で「ハンターイ」を叫んだのだが、結局は押し切られて「仕方がない」というかたちをとつた。私は中国語劇に引っ張り出された。学校の授業風景での生徒の役だつたが、何の授業だつたか全く覚えていない。

 少年の胸をときめかせたのは、芙蓉高女の一年生、つまり、同期の少女達のダンスである。一つは「お花のホテル」 この童謡の旋律は、いつもかすかな記憶のなかの白い残像に重なって懐かしく甦る。もう一つは、劇中のお人形さん達の踊り。客席の間を通り抜けてステージへと向かう玩具の兵隊さん達の白い後姿が、何とも可愛らしくまばゆかった。

二学期の期末考査の当日だつたが、突然、下藤小を追い出され、今度は芙蓉高女のお世話になる羽目になった。芙蓉高女が午前、大中が午後の二部授業である。しかし、それも長くは続かなかった。

 冬が近くなり、引揚げが迫った晩秋のある日、ついに最後の時を迎える。「大連市日僑中等学校第二校」〜大連中学校は、兄妹校とも言うべき大連芙蓉高等女学校と運命を共にしたのである。
このページの先頭に戻る

大連中学校同窓会会報 創立60周年記念誌(1994年12月刊行) より抜粋・転載
■ 机の無かった教室                                  岩井 明 (大正小卒)

 私は去る8月28日帝国ホテルで開催された「大連中学創立60周年記念大会」に出席して驚いた。あれだけ広い帝国ホテルの「富士の間」が大中の諸先輩、恩師、招待客等で一杯になっていた。よくもこれだけの大連中学の卒業生、在校生が半世紀経過した今、集まったものだと目を見張った。

 我々13回入学生は大中最後の入学生である。この後はない。従って昭和21年の春の入学となる。

 私の通っていた小学校は大中と同地域の大正小学校であったため、大中の戦時中並びに戦後の混乱期の事情を具に観察している。しかし、何せよ半世紀も前の事である記憶が定かでない。もし事実と反していたらお許し願いたい。

 昭和20年の夏の終わりにソ連軍が大連に侵入するや否や、大中はソ連兵に占拠されてしまった。その後誰が軍と交渉したか分からないが、学校である故、返して欲しい旨の要請をしたのであろう。ソ連軍は一旦出て行ってくれた。当時の情勢からすると稀に見るケースだつた。しかしである。ソ連軍が転出した後の一瞬、付近に住む中国人が乱入し、机、椅子をはじめ燃えるものは全部持ち出してしまった。残ったのは天井と床だけ、教壇も無かった。残ったのは瓦礫の山だけだった。我々新入生も入学早々その一部の片付けを手伝った。


 話は前後するが入学試験は無かった。居住地区による学区制で入学させたのであろう。授業は机も椅子も無い床の上で直に座っての受講であつた。黒板はあったと思う。教科書は軍国色のない科目については、全部先輩達のお古を拝借した。英語の授業で一番初めに習ったフレーズは「ザ・オストリッチ・イズ・ア・ラージ・アンド・ストロングバード」だつた。マウスという渾名の教師だつた。

 物理、数学、国語、ロシヤ語と一通り習った。先生方は皆優秀で戦後の生活難に屈することなく熱心に教鞭をとつてくれた。但し、我々13回生の大中での勉学期間は、夏休みを終えてそろそろ寒くなる前の11月までの極く短い期間であつた。そのためか、残念ながら学友は殆どできなかった。時期は定かでないが、その間学校は再びソ連軍の追い出しをくい、我々は下藤小学校で二部制の授業を受けることとなった。

 朝は早く登校し、始業時まで同学年の組対抗でサッカーに興じた。人数は無制限、ゴールキーパーは無し、相手側のエンドラインへ入れれば勝ちだつた。ボールは初めのうちは野球のゴムボール、これがパンクすると布を丸め糸で縛ったものに替わった。球を蹴るより相手の足を蹴った方が有効である。それには少し大きめの硬い靴を履いている奴が有利だつた。私は何度となく、その靴で脛を蹴られ、酷い目にあった。でも楽しかった。

 夏休みが少しあり、そのうちに運動会が下藤小学校で開催された。今にして思えば、慶応の応援歌そのものの一部を変えただけの歌で応援した。


また、学芸会も開いた。それは芙蓉高女と合同
で同女学校で行った。そのうちに引揚げが始り学
業は終わったが、中学一年生の繰上げ修了証書はしっかりくれた。

 以上は私が大中に入学してからの体験であるが、私が小学校3〜4年の頃、即ち昭和18〜19年頃の垣間見た大中の先輩達の事を話そう。

 大中の先輩達は実にカッコよかった。当時少年の憧れの的であつた海兵、予科練へ、大中の先輩達はドシドシ合格した。加えて、大中のグランドには、本物のグライダーが何機かあり飛んでいた。私の住居の隣に住んでいた当時大中の一年生か二年生であつた陳君義兄に聞いた。「グライダーは誰が引いて誰が乗るのか」と
・・・

 答えは、下級生が走りゴムの綱を引っ張り、上級生が機に乗る。ある程度のところまで引くと機を地上と固定してあるフックを外して飛んで行くのだと。グライダーは結構高くまで上がり、反対側の壁ののすれすれまで飛んだ。私は小学校の下校時にこの光景を見ながら、大中のグライダーに限りない憧れを抱いた。

 それにつけても、先輩達は戦況が悪化していくにつれて、気の毒な程ご苦労だつた。先ず、ズボンのポケットは縫い付けられ、寒くても手は入れられない。登校はゲートルを巻き、木銃の携行、上級生にすれ違えば先に敬礼、電車は学校の二つ、三つ手前で下車、歩きとなる。上級生は学徒動員で工場へ、慣れないので機械で大怪我をする人が多かった。
時は流れて1991年の夏、小学校から大中も一緒だつた学友二人と大連に行った。あのグライダーが飛んだ、大中のグランドは建物で一杯に埋まっていた。一抹の寂しさを感じた。

 先日の帝国ホテルでの大会で挨拶をされた第8回の紫藤先輩が印象的な話をされた。かの有名な物理学者アルベルト・アインシュタインが、晩年(アメリカで)自分がより長生きをする事の楽しみは、モーツアルトの名曲をそれだけ多く聴ける喜びがあることだと。〜

 我々は長生きしていれば、また、大中の仲間達に会える喜びがあるではないか。〜名言であつた〜
 
 アインシュタインがドイツを想う心同様、我々の心の故郷は大連中学の仲間にあるのだ。この話しを拝聴した小生も、今年の3月、60歳で定年を迎えた。

 末筆ながら
先日の帝国ホテルでの大会に向けての準備に当られた、大会実行委員長を初め、各回の幹事各位、関係された諸先輩の並々ならぬご苦労と、それに費やしたエネルギーに対し心から感謝の意を表し、大会に出席させて頂いたお礼の言葉とさせていただきます。(平成6年11月記)         このページの先頭へ
 
★大連中学校同窓会会報 創立60周年記誌(1994年12月刊行)より転載
■ 終戦前後のことなど(大連)                           江口 雅昭 (下藤小卒)
(その1) 直前
 昭和20年8月上旬、夏休みも間近になつってきた頃、北満においてソ連軍が越境参戦して南下し満洲国内に深く進軍しつつあることが報じられた。直ちに学校は閉鎖され私達は自宅待機となつた。学校の校庭、聖徳公園には重機関銃が据付られた。小学校六年生であった少年の目にも近くここで市街戦が始まることが察知された。

しかしながら私達は無邪気なもので、魚釣りを楽しむなどして過ごし、恐怖感、不安感など微塵もなく、関東軍の反撃と大戦果を信じて疑わなかった。


そのようなある日、学童四人が相談し、飛行場の兵隊を慰問することになった。お土産に、原節子、高峰美枝子、高峰秀子、名寄岩のプロマイドを購入して出かけて行った。
 兵隊の宿舎では大歓迎を受け、早速ベッドの上で白米のご飯とかぼちゃの豚汁をご馳走になった。弁当に持参したトウモロコシの蒸しパンは持ち帰った。


 兵隊は内地で訓練を受け赴任してきたばかりの若いパイロットと整備士達の八人であつた。広大な敷地の飛行場の滑走路に戦闘機「雷電」が一機ポツンと待機していた。私達は機の翼に乗り操縦席を覗き見ることを勧められた。この戦闘機は米軍の重爆撃機B29を迎撃するために開発されたばかりの最新鋭機で、プロペラは4枚で十文字形をしており、一撃で敵機を撃墜できる口径20ミリの機銃を装備している。近々もう一機が追加配備される予定、などといつた説明があつた。

 ここの基地には検問所はない。丸太を立てそれに4本程度針金を水平に通した粗末な柵で基地を囲っていた。外からの侵入に対しては無防備である。中国人も基地に自由に出入りしていた。物々交換にである。兵隊の残飯と中国人側からは卵、たばこ、大豆であつた。

 整備工場内では中国人が急拵えのドラム缶で造った炉の上に中華鍋をのせ料理をしていた。航空機用の燃料を食用油として使っていた。植物油はオクタン価の高い航空機用のガソリンの代用になり得るのだろうか。松根油、ヒマシ油は軍用として供出されていた。


 再度来訪することを約束して帰った。三日と経ずして、才田伍長より葉書が届いた。電話をしたのだが不在だつたので葉書で連絡する。これから前線に向かう。二度と逢うことはなかろうという絵文字交じりの便りであった。多分8月10日過ぎのことであったろう。

8月15日、母と二人で玉音放送を聴いた。突然母が声を上げて泣き出した。半信半疑であつた。父が帰ってきて敗戦は事実であると知らされた。


(その2) 終戦直後
 その日から数日後、父が慌しく帰宅してきた。毛布を持つて今すぐに下藤小学校に避難せよと連絡してきた。中国人が暴動を起こし襲ってくるおそれがあるとのことである。近所の人達と連れ立つて学校に行った。どの教室も講堂も満員の状態であつた。

一人の日本人が軍刀を片手に中国人街の方面に歩いて行った。私は学友と二人で跡を追った。聖徳公園の手前まで来たとき、彼は公園の高台に達していて中国人の様子を伺っているようであつた。

私達と二三人の大人達が不安げに道路側より見上げていた。やがて、彼が意を決したように中国人街の方面へ歩き出した。私と学友が跡を追った。公園の高台に着いた頃には彼は既に坂を下りきり中国人街の間近に迫っていた。中国人側の動揺している様子が伺えた。
代表を呼びに行った。代表が5〜6人に付き添われて来て彼に近づいた。双方が同時に深々と一礼した。緊張が走った。抜くかと思った。

 ここで
学友が脱兎の如く走り逃げ出した。私も奔った。無人の街と化し静まり返った車道の中央を通り学校へ戻った。物陰から突然暴漢が現れた場合に備え、すばやく逃走できるように、両側の歩道を避け、左右に目配りし車道の中央を選んで歩いた。自分の足音のみがザッザツと奇妙に耳に響き恐怖心を煽った。自宅への路地を遠くから恐る恐る覗き込んだ。

 彼からの報告では、中国人側も同様に警戒態勢にあり、交渉の結果、双方とも襲う意図などないことを誓い、和解したとのことであつた。学校で一夜を過ごす必要も無くなりこの件は落着した。

(その3) 拉 致
 私の家の前で、突然大きな叫び声。バタバタと走る足音、銃声数発が聞こえた。近所に住む主人がうずくまった。中国人の保安隊二人が主人を連行して去った。数分後に彼はニコニコ顔で無事開放され帰ってきた。

 主人は当時警察署に勤務する巡査であつた。署から出頭命令があり指定の集合場所に出かけたところ、全員ソ連軍に拉致され列車に乗せられてシベリア方面へと北上した。途中、彼は列車から飛び降り逃走した。その旨を保安隊に説明したところ、不審が解け釈放されたとのことであつた。

(その4) 大連中学校
 翌年大連中学に進学した。全員希望校に無試験で推薦入学した。ソ連兵が駐留、校舎を接収した際、教室にあった備品、机、椅子、黒板など、全て暖房用の燃料として焼却処分していた。座布団持参で登校。土間に座っての授業であつた。

 その校舎も再び接収され、以後、小学校、女学校へと移り、午前と午後との交替制になつた。語学は英語、ロシア語、中国語であった。春秋の運動会が開催された。早稲田と慶応との応援歌を一部変えて歌った。
 
 中等学校野球リーグ戦が4月から12月までの間に4回あった。引揚後プロ野球界で活躍した満倶所属の審判、監督、選手のことなどご存知の方に詳しく教えて貰いたいものです。

(その5) 素晴らしい街・大連
 大連は中国にあり貧相で薄汚い街を連想する人が多い。私はこう釈明している。全戸にガスが普及していた。電力供給は充分で戦後一年半余、炊事は電力で賄った。水は水道、井戸ではない。電話も普及していた。自動交換である。呼び出しではない。一部の地域では水洗式トイレである。下水処理は完備している。川や海に垂れ流していない。道路はほぼ100%舗装され、日本内地と比較して遥かに文化的であったと。

大連病院=満鉄病院など現在の日本にある大学病院と比較して、なんら遜色ないこと。大中から星ケ浦海水浴場方面に行く途中に浄水場があり下水の処理をしていたが、プールのような開放型の槽で暴気していたので、遠くにまで悪臭を放っていた。当時としては日本の一部の巨大都市でもこのようなものであつた。

 星ケ浦海水浴場、黒石礁付近の海水の透明度は世界一です。東京近郊のの河川、海は汚染がひどい。私は浄化槽のメーカーに勤務していたものですから、つい、このようなことを書いてしまいました。浄化槽の普及により近年益々都心の川も水はきれいになりつつあり、ボラが遡上する昨今です。   
このページの先頭に戻る
★大連中学同窓会会報「大中だより・第22号」 2004年(平成16年)1月発行より抜粋・転載
■ 終戦当時の大連中学について  山元 清 (8回生・昭和21年卒)    
 もう50年も経過した段階で、記憶が薄れてきて殆ど忘れてしまったが、印象の深いものだけ書いてみる。もし記憶違いであつたらお許しを乞う。

 第一、その時の先生達の名前を殆ど忘れてしまっている。池田校長、阿部、伊藤、林、只木、芹川の諸先生方は確かにいられたと想う。伊藤先生は昭和20年7月頃召集を受けられ、これを皮切に次から次へと召集され学校は授業どころではなかった。3〜4年は大連機械等で学徒動員、1〜2年も防火用水池掘り。夏休みなど返上してである。それでも週に2〜3日は授業をした覚えがある。


 
昭和20年8月15日 正午 終戦の詔勅を聞く。

 それはそれは、とても蒸し暑い日だつた。池田校長より「本日重大放送があるので講堂にラジオを設置しておくように。」と指示を受けて、職員室のラジオを講堂の演台の袖に置いた。

生徒通用門から入ると直ぐ売店がある。その廊下にスチームが通っている。その鉛管にコードを巻きつけてアースアンテナとした。講堂の中央まで引っ張ると言うことはかなりの長さである。「良く聞こえるか確かめよう」と阿部先生が聞いてみた。「これで良し。」

 然しである。肝心の玉音放送はガーガーピーピー雑音だらけで一つも聞き取れない。校長からは何とかせんか・・・・・と目で合図がくる。生徒達もざわざわしている。だけどどうにもならない。陛下の放送が終わると途端に明瞭なアナウンサーの声。これで皆納得してくれたようだ。校長の訓示はどんな内容だつたか記憶にないが、涙を流されていたのが印象的であつた。

 阿部先生が「高く飛び上がろうとすれば姿勢を出来るだけ低くしないといけない。これから日本は世界中から叩かれるだろう。しかし、姿勢を低くして耐え抜けばやがては今よりも素晴らしい国を作るだろう。それは生き残った我々責務だと思って頑張ろう。どんなに辛くても皆生き残れ。」と言われた言葉が今でも忘れられない。


 この8月15日の正午を境に天と地がひっくり返った。

 大連は異国になつた。その中にある日本人は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の地獄そのものであつた。次の日から満人のショウハイが10人位の集団で投石に来る。危険極まりない。出て行けば初めは逃げていたが、だんだん強くなってくる。全くのお手上げである

 御真影・教育勅語・国旗・校旗を中庭で焼く。

 池田校長の指示で、職員室にいた先生達の全員が中庭で何か燃やしているようだ。生徒の頃は卒業するまで中庭に一度も出た記憶がない。教室から帰ってきて職員室の異様な雰囲気にびっくりした。すぐさま窓越しに見ると丁度校旗が燃えている所だつた。中庭の先生たちは直立不動の姿勢である。殆ど涙しているように見えた。勝てば官軍、負ければ賊軍 本当に情けないやら悔しいやら。じーと立って居られなかったことを覚えている。

 それから一週間もしない内に校舎内が暴徒によってめちゃくちゃに荒らされた。中でも物理や化学実験室にあった機械類は何一つ残っていなかつた。校舎全体足の踏み場もない。この頃は午前中4時間の授業だつたがこれとても事欠いてきた。この時以降私は職を辞したので詳しいことは分からない。校舎を転々として授業をしたようである。


ソ連兵 戦車で乗り込んで来る

 大中の広い運動場の南側に門がある。マラソンの時にしか通った覚えがない。その門から1台の戦車が乗り込んで来た。どうしたものかと慌てふためいた。その時学校には阿部先生と二人だったと思う。

 阿部先生が「彼等も人間、笑顔で出迎えてやれば何もしないだろう。歓迎の準備をすっぺ。」幸い温室の中に机と椅子があつたので、プールの前に並べ有り合わせの菓子などを並べた。面白いのが豆腐を出したことである。酒など全然無いので湯茶とした。


 ソ連兵は兵卒と将校の2人である。将校はロシア語で何かまくし立てる。何のことか全然分からないが、阿部先生が盛んに拍手をするので随分と気分を良くしたようだ。戦車からウオッカーを持って来て、4人のコップに並々と注ぎ「ウラーウラー」とやる。我々にも「飲め」としきりに強要する。その酒が余りに強すぎて喉をこさぎ食道や胃が焼けただれそうである

 豆腐を見て何か盛んに言っている。醤油をかけて食べてみせる。彼等も食べてみて良かったと見えて、「ウォー」と言って親指を突き出して笑っているので内心ホッとした。「ウラーウラー」を何回もする。その度に飲まされるのでとうとう酔っ払ってしまった

 彼等が帰った後、「オカベのお陰で助かったな」と阿部先生ももホットしたようである。彼等の機嫌をそらすことなく、応対された阿部先生の度胸にはすっかり感服した。現在までロシア人との付き合いが随分あつたのだが、オカベを喜んで?食べた人を知らない
 それぞれの人が引揚まで言うにいわれない苦労をしてきた。「もう二度と大連に行きたくない。」と言う人もいる。生き残って引揚られただけでも良しとしなくてはいけない。お互いの貴重な体験を、日本の平和の為に世界の平和の為に捧げたい。

 応召に次ぐ応召で先生達は極端に少なくなつた。池田校長より学校に協力するように言われて、20年4月中旬より9月中旬まで大連中学に居たものである。

★大連中学校同窓会会報(大中だより13号) 創立60周年記念特集(1994年12月刊)より抜粋・転載